結論:線は星詣の目安、歴史は由緒に沿って
- 線:晴明神社から天社宮まで、座標から計算した直線距離は約43.5 km、方位は340.6°(北北西)。道のりではなく、星詣が引いた目安です。
- 京から名田庄へ:由緒は、応仁の乱の兵火で京の社殿が焼け、御神体が祭料地の若狭名田庄へ遷されたと記します。長享2年(1488)には名田庄で社殿が再興されました。
- 名田庄から京へ:慶長5年(1600)に土御門久脩が上洛し、翌年には名田庄を引き上げて京郊外の梅小路に邸宅を構えました。
- そのあと:明治に天社神道が禁じられ、昭和21年(1946)に再興。御神体は名田庄に遷されて今に至ります。
線を引く:二つの座標と、途中に何もないこと
起点は晴明神社にしました。晴明公の屋敷跡に建つと伝わる、京の目印として選んだものです。終点は名田庄の天社宮です。二つの座標は次のとおりです。
| 地点 | 緯度 | 経度 |
|---|---|---|
| 晴明神社(京都市上京区) | 35.027412 | 135.751175 |
| 天社土御門神道本庁(おおい町名田庄) | 35.396406 | 135.591334 |
距離は、地球を半径6371.0088 kmの球とみなす大円距離(ハーバーサイン式)で計算し、方位は出発地から見た初期方位角(真北から時計回り)です。結果は約43.5 kmと340.6°。
線の途中、起点から約5〜40 kmのあいだに、星詣が載せている地点はありません。京都の10地点は晴明神社から約7 km以内、名田庄の天壇 泰山府君社跡と暦会館は天社宮から約0.6 km以内に集まっています。経由地を巡る道ではなく、二つのまとまりを結ぶ線です。
京から名田庄へ:応仁の乱と、社殿の再興
天社宮の由緒によれば、御神体はもと京の都の、安倍晴明公の邸内社に祀られていました。応仁の乱(1467–77)の兵火で社殿は焼けましたが、御神体は難を免れ、祭料地である若狭名田庄へ遷されたと記されています。
名田庄は、天平8年(736)に聖武天皇が「泰山府君祭料知行地」と定めたと伝わる土地です。長享2年(1488)、土御門有宣がここに社殿を再興し、居城を築いて遷宮の儀を行ったと由緒は記します。
土御門家が応仁の乱を避けて名田庄へ移った、と語られることがあります。ただ、由緒が書くのは御神体が遷されたことと長享2年の再興で、誰がいつ移ったかは記していません。おおい町の暦会館の案内は、土御門家が3代にわたって名田庄に移り住み、天文暦学の道場を開いたと紹介しています。
名田庄から京へ:1601年、梅小路の邸宅
名田庄での暮らしは、永続しませんでした。由緒によれば、慶長5年(1600)、土御門久脩は関ヶ原の戦いののち、勅命により再び上洛します。翌慶長6年(1601)には名田庄を引き上げ、京郊外の梅小路に邸宅を構え、徳川家康から陰陽道宗家として認められて家禄を賜りました。
ここで断っておきます。1601年に土御門家が戻ったのは梅小路で、晴明神社のある上京区ではありません。本稿の線が晴明神社を起点にしているのは、京の側の目印として星詣が選んだからで、邸宅の位置を示すものではありません。
そのあと:禁止、再興、そして名田庄へ
明治3年閏10月17日、明治政府は「天社神道禁止令」を出します。由緒によれば、社殿は取り壊され、土御門家は京都の邸宅や天文台を失いました。それでも御神体は、維新から78年のあいだ、代々の当主の手で守られたと記されています。
昭和17年(1942)に土御門神道同門会が結成され、昭和21年(1946)5月21日に「天社土御門神道」として再興、昭和29年(1954)1月11日に宗教法人として認証されました。御神体は京都での仮安置ののち、名田庄へ改めて遷宮されたと由緒は記します(遷宮の年は不明)。
編集部注:土御門家と天社土御門神道の関係
道のり:直線と、実際に走る距離
約43.5 kmは直線の距離で、道のりとは別です。京都市内から名田庄へは、国道162号(周山街道)で約2時間という案内があります。鉄道の経路は、確認できていないためここでは書きません。訪ねる前に、天社宮とおおい町の最新の案内をご確認ください。星詣の現地確認日は、なしです。