八雲神社
八雲神社(やくもじんじゃ)は、北鎌倉駅から約500m(地図の目安)にある、山ノ内の鎮守です。境内の一段上には、もと山ノ内の道の十王堂橋近くの路上に埋まっていた「晴明石」(「清明石」とも書かれる)が移されて祀られ、知らずに踏めば足が丈夫になり、知って踏めば足を悪くすると伝わることから「びっこ石」の名でも呼ばれてきました。寛文五年(1665年)銘の庚申塔(鎌倉市指定有形民俗文化財)でも知られる社です。
由来・伝承
八雲神社の由緒は、資料によって書き方が分かれます。円覚寺の管長のブログは、1224年(元仁元年)に北条泰時が疫病に際して四角四境祭を行い、その後、京都の祇園社の神霊を勧請した牛頭天王社と伝えます。民間の資料には、文明年間(1469〜1487年)に上杉憲房が京都の八坂神社を勧請したとするものがあります。鎌倉市の資料は、もとは牛頭天王社と称したと伝わる、とだけ記し、勧請の年は書いていません。『吾妻鏡』元仁元年十二月二十六日条には、疫病が流行し、陰陽権助の国道の進言で四角四境の鬼気祭が行われ、四境は東が六浦、南が小壺、西が稲村、北が山内であった、と記されています。この条は八雲神社には触れていません。鎌倉手帳は、牛頭天王を祭神としていた神社は明治の神仏分離で祭神を素盞嗚命に改められたとし、現在の社名は素盞嗚命が詠んだ和歌「八雲立つ」にちなむ、と記します。現在の社殿は弘化三年(1846年)の再建です。
晴明公と鎌倉を結ぶ記録は、『吾妻鏡』治承四年(1180年)十月九日条に、源頼朝が当座の御所とした知家事兼道の山内の宅について、正暦年中の建立以来一度も火災に遭っていないのは清明朝臣(晴明公)が鎮宅の符を押したためだと記す一節です。晴明公自身が鎌倉に来たという史料はありませんが、この記事を核として、山ノ内には晴明公ゆかりの石や碑が語り伝えられてきました。
晴明石(びっこ石)
『新編相模国風土記稿』は、山ノ内村の往還に「晴明石」が二所あり(各々大きさは三尺ほど)、石の傍らにそれぞれ井があって、安倍晴明の加持水として火難を防ぐ霊験があると言い伝える、大船村の多聞院の持ちである、と記しています。いまの八雲神社の石が、風土記稿の二つの石のどちらに当たるかは、資料に明記がなく、確かめられません。鎌倉市教育委員会編『としよりのはなし』(転記による参照)によれば、十王堂橋の少し大船寄りの路上にあった石は戦後に進駐軍によって掘り起こされ、天王屋敷跡に運ばれたのち、昭和四十四年(1969年)に八雲神社の境内へ移されました。石の名は、風土記稿では「晴明石」、現地の立札では「安部清明神君」と書かれ、「清明石」とも呼ばれます。石はいま、境内西側の古い石段を上った石鳥居の脇に、地面に埋め込まれた平たい大石として祀られ、傍らに「安部清明神君」の立札が立ちます。火難・災難除けの神の石とされる一方、道の真ん中に埋まっていたころ、この石を知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏めば足を悪くすると語り伝えられ、「びっこ石」の通称が残りました。
見どころ
境内には庚申塔があり、そのうち寛文五年(1665年)銘の一基は、昭和四十年(1965年)に鎌倉市の有形民俗文化財に指定されています。鎌倉手帳は、この庚申塔を「鎌倉最大にして最古のもの」と紹介しています。社に伝わる面と衣裳二十四点も同じく市の指定文化財(鎌倉国宝館寄託)で、面掛行列に用いられたものです。面掛行列について、鎌倉手帳は、令和の洪鐘祭(2023年10月29日。円覚寺の六十年に一度の行事)で八雲神社の面掛行列が復活し、これを機に例大祭でも本格的に復活したと伝えます。一方、鎌倉市の『歴史的風致維持向上計画』は、面掛行列を「現在は行われていない」と記しており、資料によって書き方が違います。例大祭は七月中旬です(鎌倉市の資料)。令和8年の日程は、八雲神社の公式に記載を確認できていません。晴明石のある上段は崖に接しており、氏子会の注意書きが立っています。足元に注意して参拝してください。
アクセス
- 所在地
- 神奈川県鎌倉市山ノ内585
- 参拝
- 開閉の時間・社務所・御朱印・トイレは、公式に記載を確認できていません。駐車場は、民間の情報で「なし」
- 電車
- JR横須賀線「北鎌倉」駅から約500m・徒歩約8分(地図の徒歩ルートの目安。公式の記載なし)。鳥居は駅の改札と線路を挟んだ反対側(大船寄り)の山裾にあり、石段を上る
- 晴明石
- 拝殿のある境内から、西側の古い石段を上った一段上(石鳥居の脇)
晴明石のある上段の周辺は崖で危険なため、氏子会が立入注意の掲示を出しています。柵や掲示の指示に従ってください。
周辺の関連スポット
- 安倍晴明大神の石碑(鎌倉市山ノ内)——横須賀線踏切脇に立つ「安部清明大神」の碑。晴明公ゆかりの館の跡と伝わる。徒歩約17分(地図の目安)。
- 第六天社(鎌倉市山ノ内)——建長寺の四方鎮守。鳥居の脇に「安部清明大神」の碑が立つ。徒歩約23分(地図の徒歩ルートの目安。八雲神社から第六天社まで約1.6km)。
- 晴明神社(京都・堀川一条)——晴明公の屋敷跡に創建された晴明信仰の中心。
よくある質問
- 晴明石はどこにありますか。
- 拝殿のある境内から、西側の古い石段を上った一段上にあります。石鳥居の脇に地面に埋め込まれた平たい大石で、「安部清明神君」の立札が目印です。周辺は崖なので、掲示に従って足元に注意してください。
- 「びっこ石」とはどういう意味ですか。
- この石を知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏めば足を悪くする(びっこになる)と言い伝えられてきたことによる通称です。『としよりのはなし』(転記による参照)によれば、もとは十王堂橋近くの道の真ん中に埋まっていた石で、戦後に掘り起こされ、昭和四十四年(1969年)に境内へ移されました。
- 安倍晴明は鎌倉に来たのですか。
- 晴明公が鎌倉に来たという記録はありません。『吾妻鏡』治承四年十月九日条に、源頼朝が仮の御所とした山内の家に晴明公が鎮宅の符を押したため火災に遭わなかったと記されるのが、『吾妻鏡』にある山ノ内と晴明公を結ぶ記述です。江戸時代の『新編相模国風土記稿』にも、山ノ内の晴明石の記述があります。
出典・参考
- 鎌倉市「鎌倉市内指定文化財一覧 有形民俗」(PDF)(庚申塔〈寛文五年銘〉昭和四十年三月三十日指定、面と衣裳二十四点 昭和三十七年九月十一日指定、山ノ内585番地 八雲神社)
- 『吾妻鏡』治承四年十月九日条(知家事兼道の山内宅と清明朝臣の鎮宅の符)、同 元仁元年十二月二十六日条(国史大系 第4巻、国立国会図書館デジタルコレクション、頁八百五十四)(疫病の流行、四角四境の鬼気祭、四境の北は山内。八雲神社には触れていない)
- 『新編相模国風土記稿』第四輯 鎌倉郡(大日本地誌大系、国立国会図書館デジタルコレクション) 巻之八十一(鎌倉郡巻之十三)山ノ内村の項、頁三十四(コマ240)。「晴明石。往還中ニ二所アリ。〔各大ニ三尺許〕。石ノ傍ニ各井アリ。安倍晴明カ加持水ニシテ火難ヲ防ク奇特アリト云傳フ。大船村多聞院持。」
- 鎌倉市教育委員会編『としよりのはなし』(鎌倉市文化財資料 第七集、1971年〔昭和46年〕12月。国立国会図書館の書誌による。清明石の掘り起こしと天王屋敷跡への移動、昭和四十四年の八雲神社への移設。転記により参照、本文は未確認。鎌倉市図書館 郷土資料コーナー所蔵)
- 現地立札「安部清明神君」、山ノ内八雲神社氏子会の立入注意の掲示(写真により判読)
- 鎌倉手帳(寺社散策)「八雲神社〜鎌倉山ノ内の鎮守〜」(祇園社勧請の伝え、上杉憲房、弘化三年の社殿再建、祭神の改称と社名の由来、庚申塔、例大祭、面掛行列の復活)
- 円覚寺(公式)管長のブログ(由緒:1224年の四角四境祭、その後の祇園社の勧請)
- 円覚寺(公式)ブログ 洪鐘祭(六十年に一度、直近は2023年10月29日)
- 鎌倉市『鎌倉市歴史的風致維持向上計画』第2章(PDF)(八雲神社(山ノ内)例祭の項。もとは「牛頭天王社」と称したと伝わる、例祭は7月中旬。面掛行列は「現在は行われていない」と記す)
- miurahantou.jp「八雲神社(山ノ内)」(民間。文明年間・上杉憲房の説、駐車場)
- 鎌倉市中央図書館のレファレンス事例(レファレンス協同データベース)(浄智寺前の踏切の晴明石、第六天社の碑への言及)
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最終更新:2026年10月12日
- 御祭神
- 素盞嗚命(明治以前は牛頭天王社)
- 創建
- 由緒は資料で分かれる(円覚寺:1224年の四角四境祭ののち祇園社を勧請。民間:文明年間に上杉憲房が勧請)
- 晴明石
- 十王堂橋近くの路上から昭和四十四年(1969年)に境内へ移設(『としよりのはなし』による。転記)。通称「びっこ石」
- 文化財
- 庚申塔(寛文五年銘)、面と衣裳二十四点(鎌倉市指定有形民俗文化財)
- 参拝
- 開閉の時間は公式に記載なし。駐車場は民間の情報で「なし」
- 所在地
- 〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内585
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