誕生地の碑と産湯井の跡
境内はおよそ百八十坪の小さな社地ですが、伝承にまつわる石と像が集まっています。「安倍晴明誕生地」の碑は江戸時代に神南辺大道心が寄進したもので、この人物が各地で石碑を建てたいきさつは『住吉区史』に見えると公式サイトは述べます。
「安倍晴明公産湯井の跡」は、江戸時代の『摂津名所図会大成』にも描かれた井戸で、現在は手水舎の横に位置を移しながら今も水が湧き、「晴明水」として手水に使われています。
大阪の安倍晴明神社は、阿倍野区阿倍野元町、旧熊野街道に面して鎮座する阿倍王子神社の境外末社です。社伝『晴明宮御社伝書』によれば、晴明公の死を惜しんだ花山法皇の命により、生誕の地とされる阿倍野に寛弘四年(1007年)に創建されたと伝わります。境内には江戸時代に建てられた「安倍晴明生誕伝承地」の石碑、産湯井の跡、鎮石、葛之葉霊狐の飛来像が並び、大阪市は社域全体を保存樹林に、この地を「安倍晴明公生誕伝承地」として顕彰しています。京都の晴明神社とは別の社です。
公式サイトが伝える社伝によれば、御祭神の安倍晴明公は、崇神天皇の御代に四道将軍を務めた大彦命の遠い子孫にあたり、天慶七年(944年)三月、辰の日の辰の刻にこの阿倍野の地で生まれて安倍童子と呼ばれたといいます。のちに都へ上って賀茂忠行・保憲父子に学び、村上天皇から一条天皇まで五代の帝に仕えて天文博士や播磨守などを歴任し、寛弘二年(1005年)九月二十六日に世を去りました。その二年後の寛弘四年(1007年)、晴明公を惜しんだ花山法皇が故郷の阿倍野に社を建てさせたのがこの神社の始まりと伝わります。晴明公の生年については、本サイトの他のページが依拠する延喜二十一年(921年)説をはじめ諸説があり、生誕地にも奈良・安倍や茨城・猫島などの伝承が並び立ちますが、公式サイトは阿倍野をもっとも有力な説と位置づけています。
この社が晴明公の子孫である土御門家からも特別な場所と見なされてきたことは、江戸時代の記録が示します。公式サイトによれば、宝暦四年(1754年)の晴明公七百五十年祭にあたって土御門家が示した「晴明霊社旧地之次第」は、奈良の安倍文殊院、大阪の安倍晴明神社、福井の天社土御門神道本庁、和泉の信太明神、京都の晴明神社、嵯峨の御墓所、東山の遣迎院(けんごういん。公式サイトの表記は「遺迎院」)の七箇所を晴明公の旧跡と定め、当社を生誕地として「第二之旧跡」としています。明治政府による陰陽道の禁止ののち、昭和十七年(1942年)に土御門神道同門会が結成され、昭和二十一年(1946年)に天社土御門神道本庁として再興が果たされた際には、阿倍王子神社宮司の長谷川茂が設立時の主管者三名の一人として名を連ねました。阿倍王子神社には本庁発行の「昭和二十二年本暦」が保管され、両社で頒布される本暦は今も天社土御門神道本庁が発行しています。
境内はおよそ百八十坪の小さな社地ですが、伝承にまつわる石と像が集まっています。「安倍晴明誕生地」の碑は江戸時代に神南辺大道心が寄進したもので、この人物が各地で石碑を建てたいきさつは『住吉区史』に見えると公式サイトは述べます。
「安倍晴明公産湯井の跡」は、江戸時代の『摂津名所図会大成』にも描かれた井戸で、現在は手水舎の横に位置を移しながら今も水が湧き、「晴明水」として手水に使われています。
「鎮石」は孕み石とも呼ばれて安産の御利益が伝わり、藤原実資の女房の出産に際して晴明公が穢れを祓い産所への祟りを封じる解除を行ったことが『小右記』に見える、と公式サイトは説明します。
このほか晴明公の銅像、伝説上の父・安倍保名の名を冠した泰名稲荷神社、母・葛之葉姫の物語を伝える葛之葉霊狐の飛来像があります。境内には占いコーナーが設けられ、晴明公の学問である占いの社としても親しまれています。
年中行事では、七月七日午後二時に晴明公の星祭りである七夕祭、九月二十六日午後二時に安倍晴明神社大祭が営まれます(阿倍王子神社公式サイト「行事予定」)。
授与所が不在のときは南五十メートルの阿倍王子神社で御朱印と授与品(葛之葉狐おみくじを除く)を受けられ、ご祈祷は阿倍王子神社で奉仕されます。
京都の晴明神社との違い、生誕地をめぐる四つの説は、読み物「京都の晴明神社と大阪の安倍晴明神社は何が違う?」と「安倍晴明の生誕地はどこか?」で整理しています。
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最終更新:2026年9月5日