結論:晴明の師は賀茂忠行・保憲父子。保憲が「暦道は子に、天文道は弟子に」と分けた
- 師:安倍晴明(921–1005)は、賀茂忠行(生没年不詳)と、その子・賀茂保憲(917–977)を師として陰陽道・天文道を学んだ(山川日本史小辞典「安倍晴明」)。『今昔物語集』は、若い晴明が忠行の供をして夜道で鬼を見た話と、忠行が「瓶の水を移すように」道を伝えた話を載せる。
- 分岐:保憲は暦道を子の光栄(939–1015)に、天文道を弟子の晴明に伝えた。これにより暦道は賀茂家(のち幸徳井家)、天文道は安倍家(のち土御門家)が世襲することになった(日本大百科全書「賀茂保憲」)。
- その後:賀茂家の嫡流は戦国期に絶え、江戸期は支流の幸徳井家が暦注を担った。暦の天文計算は貞享2年(1685)以降、江戸の天文方に移る(世界大百科事典)。全国の陰陽師を統轄する権限は天和3年(1683)に土御門家へ集まった。
- 「賀茂神社」との関係:陰陽道の賀茂氏は大和・葛城を本拠とする賀茂朝臣で、京都の賀茂社を奉斎した賀茂県主とは系統が異なるとされる(山川日本史小辞典「賀茂氏」)。福井市の賀茂神社は京都の賀茂両宮を勧請した社で、社伝は「晴明公の師」賀茂氏を遠祖に仰ぐと伝える。
賀茂忠行──「当時、肩を並ぶ者なし」と『今昔物語集』が評した陰陽師
賀茂忠行は平安中期の陰陽家です。生没年は不詳で、天慶3年(940)ごろに近江掾の任にあり、平将門・藤原純友の乱に際して藤原師輔に白衣観音法を修すべきことを進言したと世界大百科事典は記します。同事典は、『今昔物語集』が忠行を「陰陽道に関しては当時肩を並べる者なし」と評していることを引き、奥義を子の保憲に授けたこと、忠行・保憲父子のもとから日本随一の陰陽家といわれる安倍晴明が出たことを述べています。
『今昔物語集』巻二十四第十五は、その評をこう書き出します。
今昔、賀茂忠行ト云陰陽師有ケリ。道ニ付テ古ニモ不恥ヂ、當時モ肩ヲ並ブ者无シ。然レバ公私ニ此ヲ止事无キ者ニ被用ケル。
『今昔物語集』巻二十四「賀茂忠行道傳子保憲語 第十五」(国史大系 第16巻、経済雑誌社、1901年。国立国会図書館デジタルコレクション pid 991106・558コマ)
「昔の名人にも劣らず、当代に肩を並べる者がいない。だから公私に重く用いられた」──陰陽師としての忠行の評価は、後世の説話がつくった晴明の名声より前に、こうして記録されていました。
少年保憲と鬼──『今昔物語集』巻二十四第十五
同じ第十五話は、忠行が「道を子の保憲に伝えた」きっかけを語ります。忠行が祓を頼まれて出かけるとき、十歳ほどの保憲が父を慕って泣くので、車に乗せて連れて行きました。祓の場で保憲は父の傍らに座っていましたが、帰りの車の中で父に問いかけます。
秡ノ所ニテ我ガ見ツル氣色怖氣ナル躰シタル者共ノ、人ニモ非ズ、亦人ノ形ノ樣ニシテ二三十人許出來テ並居テ、居ヱタル物共ヲ取食テ、其造置タル船車馬ナドニ乘テコソ散々ニ返ツレ。其レハ何ゾ、父ヨ。
同前(558コマ)
「祓の場で、恐ろしい姿の、人ではないが人の形をしたものが二、三十人ほど現れて並び、供え物を取って食べ、造り置いた船や車や馬に乗って散り散りに帰っていった。あれは何なのか」。忠行はこれを聞いて考えます。自分はこの道で世に勝る者だが、幼いころにこのように鬼神を見ることはなかった。物を習ってようやく見えるようになったのだ。それをこの子は、幼い目で鬼神を見ている──。
我ガ道ニ知ト知タリケル事ノ限ヲバ露殘ス事无ク心ヲ至シテ教ヘケリ。然レバ祖ノ思ケルニ不違ハ、保憲ハ止事无キ者ニテ、公私ニ仕ヘテ聊モ弊キ事无クテゾ有ケル。然レバ其子孫于今榮エテ陰陽ノ道ニ並无シ。亦曆ヲ作ル事モ此流ヲ離テハ敢テ知ル人无シ。
同前(559コマ)
忠行は知る限りのことを余さず心を尽くして教え、保憲は父の見込みどおり公私に仕えて過ちがなかった。「だからその子孫は今に栄えて陰陽の道に並ぶ者がなく、暦を作ることもこの流れを離れては知る人がいない」。『今昔物語集』が成立した12世紀の時点で、賀茂家が暦道を独占していたことが、この一文からわかります。
若き晴明と百鬼夜行──「瓶の水を移すが如し」
続く第十六話「安倍晴明随忠行習道語」が、晴明と忠行の話です。晴明は「幼ノ時、賀茂忠行ト云ケル陰陽師ニ隨テ晝夜ニ此道ヲ習ケル」──幼いときから忠行について昼夜この道を習い、少しも心もとないところがなかったと語られます。若いころ、師の忠行が下京のあたりへ夜出かける供をして、晴明は徒歩で車の後ろについていきました。忠行は車の中でよく寝入っています。そのとき晴明は、なんとも恐ろしい鬼たちが車の前からやって来るのを見ました。晴明が車に走り寄って忠行を起こすと、忠行は目を覚まし、鬼が来るのを見て、術法でたちまち自分の身も供の者も隠し、無事にやり過ごしました。
其後、忠行晴明ヲ去難ク思テ、此道ヲ教フル事、瓶ノ水ヲ寫スガ如シ。然レバ終ニ晴明此道ニ付テ公私ニ被仕テ糸止事无カリケリ。
『今昔物語集』巻二十四「安倍晴明随忠行習道語 第十六」(同前、559コマ)
「その後、忠行は晴明を手放しがたく思い、この道を教えることは瓶の水を移すようであった。こうして晴明はついにこの道で公私に用いられ、たいへん重んじられた」。忠行が亡くなったのち、晴明の家は「土御門ヨリハ北、西ノ洞院ヨリハ東」にあった、と同じ話は続けます。この土御門大路の北・西洞院大路の東という位置が、京都の晴明神社が「晴明公の屋敷跡」と伝える場所です。
なお、次の第十七話「保憲晴明共占覆物語」は、保憲と晴明がともに覆い隠された物を占う話ですが、題名だけが残り本文は欠けています。二人の術くらべがどんなものだったのかは、わかりません。
保憲の決断──暦道は光栄に、天文道は晴明に
賀茂保憲は延喜17年(917)に生まれ、貞元2年(977)に没しました。暦博士・天文博士・陰陽頭などを歴任して従四位に叙せられ、『暦林』10巻を著したと日本大百科全書は記します。同書によれば、保憲は「暦道を子の光栄に、天文道を弟子の安倍晴明に伝えた。これにより暦道は賀茂家(のちに幸徳井家ともいう)で、天文道は安倍家(のちに土御門家ともいう)で世襲することになった」。陰陽道の二大宗家は、保憲のこの采配から生まれました。
天文道の側から見ると、同書「天文道」の項は、賀茂保憲が高弟の安倍晴明に天文分野を伝えて以後、天文道はその系統に独占され、これを土御門家というと説明しています。晴明が天文得業生として記録に初めて現れるのは天徳4年(960)、数えで40歳のときです(山川日本史小辞典)。保憲と晴明の年齢差はわずか4歳。師弟というより、兄弟子と弟弟子に近い間柄でした。
暦道を継いだ賀茂光栄は、天慶2年(939)生まれ。父に暦道を学び、権暦博士・暦博士・大炊頭などを歴任し、天文道を学んだ安倍晴明とともに「陰陽師の双璧」と称されたと日本人名大辞典は記します(長和4年〈1015〉没、77歳)。
鎌倉初期の説話集『続古事談』巻五は、この二人の関係をやや辛辣に伝えます。晴明はまだ大舎人だったころ、笠をかぶって勢多橋を渡っていて、その相を見た者に「一道の達者になる」と言われた。晴明は陰陽師の具曠のもとへ行ったが用いられず、保憲のもとへ行くと、保憲はその相を見て弟子として遇した。「晴明は術法の者であり、才覚は優長ではない」──そう記したうえで、晴明と光栄の言い争いを載せます。晴明が「保憲は生前、光栄を私の前に出すことはなかった」と言うと、光栄は「愛弟子と実の子とでは、扱いが同じであるはずがない」と返し、晴明が「保憲は『百家集』を私に伝え、光栄には伝えなかった。それが証拠だ」と言えば、光栄は「『百家集』は私の手元にある。それに父は私に暦道を伝えた」と言い返した、というものです。
その後の賀茂家──勘解由小路家・幸徳井家、そして暦道も土御門家へ
暦道の賀茂家は、平安後期以降、暦道で支配的地位を独占しました。室町時代に主流は勘解由小路家、別流は幸徳井家を称します(山川日本史小辞典「賀茂氏」)。室町初期の賀茂在方は『暦林問答集』を著しています。
しかし戦国期に賀茂家の嫡流は絶え、土御門(安倍)家も豊臣秀吉に追放されていったん没落します。江戸期に入って土御門家が復興され、ついで後水尾天皇の朝に賀茂家は支流の幸徳井氏によって復興されました(世界大百科事典)。日本大百科全書は、暦術家の勘解由小路家が絶えたとき、詔により土御門有脩が天文博士と暦博士を兼ねることになったと記します。天文と暦の両方を土御門家が握る形は、ここに始まります。
江戸時代、幸徳井家は暦博士を務めましたが、貞享2年(1685)に渋川春海の貞享暦が施行されて以後、暦の天文学的部分は江戸の天文方の仕事となり、賀茂家すなわち幸徳井家は暦注部分のみを担当するようになりました(世界大百科事典「幸徳井家」)。一方で天和3年(1683)、土御門泰福に全国の陰陽師を統轄して免許を与える権限が与えられます。保憲が二つに分けた道は、七百年を経て、土御門家のもとに集まりました。この先の土御門家の歩みは、読み物「安倍晴明の子孫は現在どこに?」で扱っています。
「賀茂神社」と陰陽道の賀茂氏──同じ「賀茂」でも系統は二つ
「賀茂」の名を持つ氏族は複数あり、伝わる系譜もさまざまです。山川日本史小辞典「賀茂氏」によれば、大和国葛城を本拠とする賀茂君(のち賀茂朝臣)は大国主神の子孫・大鴨積を祖とし、主水司の負名氏である賀茂県主は山城国葛野を本拠とします。陰陽道で活躍した賀茂氏は前者の賀茂朝臣で、賀茂忠行に始まる、と同書は記します。京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)・賀茂別雷神社(上賀茂神社)を代々奉斎した社家は後者の賀茂県主です。なお、陰陽道の賀茂氏が祖を吉備真備とする系譜については、同書は疑問があるとしています。
星詣が掲載する福井市の賀茂神社は、養老元年(717)に京都の賀茂両宮の神霊を勧請したと伝わる社で、「賀茂下上大明神」と尊称されます。社伝は、当社の遠祖・賀茂氏を「陰陽師 安倍晴明の師匠」とし、その秘伝書に基づく守札を奉製していると記します。京都の賀茂両宮の分霊を祀りながら、陰陽道の賀茂氏を遠祖に仰ぐ──二つの「賀茂」が一つの社に重なっている点が、この神社の特色です。系譜の細部は社伝の範囲であり、本稿はその当否を論じません。
年表──賀茂家と安倍家
| 年 | できごと | 出典等級 |
|---|---|---|
| 917(延喜17) | 賀茂保憲、生まれる | B |
| 921(延喜21) | 安倍晴明、生まれる | B |
| 939(天慶2) | 賀茂光栄、生まれる | B |
| 940(天慶3)ごろ | 賀茂忠行、近江掾。将門・純友の乱に際し藤原師輔に白衣観音法を進言 | B |
| 960(天徳4) | 晴明、天文得業生として記録に初見(40歳) | B |
| 977(貞元2) | 保憲、没。暦道を光栄に、天文道を晴明に伝えたとされる | B |
| 1005(寛弘2) | 晴明、没 | B |
| 1015(長和4) | 光栄、没 | B |
| 12世紀 | 『今昔物語集』成立。「暦を作ることもこの流れを離れては知る人なし」と賀茂家を記す | A(古典) |
| 室町時代 | 賀茂家の主流が勘解由小路家、別流が幸徳井家を称す | B |
| 戦国期 | 賀茂家嫡流が絶える。土御門有脩が天文博士と暦博士を兼ねる | B |
| 1683(天和3) | 土御門泰福に全国陰陽師の統轄・免許の権限 | B |
| 1685(貞享2) | 貞享暦施行。暦の天文計算は江戸の天文方へ、幸徳井家は暦注のみ | B |